探せば見出される

 宮殿の大壁画、そして天井画の前で感慨深げに見据える者達がいた。
「先生、いよいよですね。」
「ああ、私の待ち望んだものがこの中にある。私の情熱がそれに光を与えるのだよ。」

「先生、ヴァザーリ先生。教会より伝言が届いております。」
「そうか、見せてくれ。」
手紙を一瞥する。教会からの催促の手紙であった。ヴァザーリは優れた建築家、画家で
あり、ある宮殿の改築を依頼されていたのだった。
「先生が改築になかなか着手しないのでいらだっているようですよ。」
「ふん、なぜ躊躇しているかもわからない癖に。君もそう思うかね?」
「はぁ、私もあの絵より先生の描かれるものの方が素晴らしいとは思うのですが。」
「君も市民も未完成の絵ということで殊更に評価を低くする。あれこそ後世に残すべき
素晴らしい遺産だというのに。」
「でも誰が見ても未完成では見栄えはよろしくないかと。」
「あの絵をきちんと評価する者は今の世ではいないのかもしれないな。私は……私の魂
は迷いでいっぱいなのだ。」

宮殿内には天才と呼ばれる男の描いた絵があった。アンギアーリの戦い。しかしその絵は
完成することなく、未完に終わっていた。その為、中途半端なものとして誰からも注目
されることもなかった。ヴァザーリを除いて。今回の改築とはこの絵を廃棄し、新たに
絵を描くというものだった。
「……」
ヴァザーリは建築家、絵画だけでなく、絵画の批評家でもあった。その為数々の作品を
研究し、その価値を知っていたのだった。このまま、この作品を破壊してしまっても
良いのか?誰かに相談できるものでもなく苦悩を続けるのであった。
宮殿では老婆が祈りをささげていた。祈りをささげるような絵ではないが、この老婆には
なにかしら特別な理由があるのだろう。ヴァザーリもそれは同じであった。

ヴァザーリはサロンにいた。サロンは社交場、語らいを楽しみ、人脈を作る場。
しかしヴァザーリは黙々と酒を飲んでいた。酒は気を紛らわす。しかし答えのない問題
に悶々とした気分には逆効果であった。
「ヴァザーリさんじゃないですか、どうしたんです?そんなに飲んで。」
「あぁ、君か。なんでもない、なんでもないんだ。」
「ヴァザーリさん、今度あの宮殿を手がけるそうですね。聞きましたよ。これで益々名声
はあなたのものとなるでしょうな。」
ヴァザーリは力なく微笑んだ。
「君はあの宮殿の絵についてどう思うね?」
「うん?あの絵ですか。私も市民と同じで未完成の絵を飾って置く位ならあなたの絵を
飾った方がずっと良いでしょうよ。」
「そうかね、嬉しいよ。」
「あぁ、あなたはあの絵を随分評価されてましたな。しかしあれを動かす事はできない。
どうにもならないことはあなたが一番ご存知でしょう。」
「あぁそうだな……その通りだ。確かに悩んでもしょうがないことではあるのだ。」
絵は壁に描かれており、移動させるのは不可能だった。自分の絵があの場にふさわしい
ものとなる自負もあった。だが心の中での葛藤は消えることはなかった。空になった
グラスに視線を落とす。しかしそこに答えがあるわけもなかった。

「ヴァザーリ先生。祭司様より会いたいと連絡がありました。」
「そうか、わかった。」
遅々として進まぬ改修作業を早くしろという催促だろう。行かないわけにもいかない。
ヴァザーリは重い足取りで祭司の元へと向かった。

「おぉ、ヴァザーリ君。良く来てくれた。」
「祭司様もお変わりなく。」
「今日は宮殿の改築の進捗を聞きたいのだ。あまり進んでないと聞いてるのでね。」
「設計と着想をもう少し練りたいと思いまして。心配をおかけして申し訳ありません。」
「まぁ君のことだ。失敗はないとは思うがな。まさかあの絵に執着しているわけでもある
まい。急ぐ仕事ではないが遅れるのは困る。我々の威光を知らしめる為の大切なもの、
というのはわかっておろうな?」
「それは重々承知しております。」
「過去に描かれた中途半端な品などに価値はない。それよりもこれから作るものの方が
よほどに価値のあるものなのだ。我々は速やかにそれを示さねばならぬ。わかるな。」
「はっ。」
「私の言葉は教皇様の御心でもある。その事を努々忘れることなく仕事をせよ。以上だ。」
会釈をして部屋を出る。スポンサーである者の言葉は絶対だ。もはや遅れを出さず結果を
出さなければならなかった。うつむき視線を落とした靴の先にも答えはなかった。

「くそっ、くそっ……!」
ヴァザーリは自宅で酒を飲んでいた。もはやなんの薬にもならないのはわかっていたが
それでも飲まずにはいられなかった。
「先生、せ……」
グラスを机に叩きつける。ヴァザーリが荒れるのは珍しい事だった。
「何が過去に描かれたものに価値は無いだ!過去の奇跡に囚われているのはあいつら
ではないか!」
もはや決断するしかない状況であった。自身で価値あるものを壊す決断を。

ヴァザーリは宮殿に来ていた。あの絵を見るために。心に刻むために。これを壊すこと
は自分の魂をバラバラにするのも同じだった。
「形あるものはいつかは失われるか……」
傍らで前にいた老婆が祈っていた。静かに目を開けた老婆と目が合った。
「あんた今度の改築の関係者かい?」
「えぇまぁ。」
「随分立派ななりしてるもんな。この絵死んだ息子によく似ていてね。この絵の前に
来ると心が安らぐんだよ。」
「そうでしたか。」
「この絵も無くなっちまうんだろうねぇ。私がこれを持って帰れるなら地中に埋めて
隠してしまいたい気分だよ。」
「ははは、それは無理というものですよ。この壁から絵だけ取るなどと……」
地中に埋める、埋める……そういえばキャンパスの上から塗りつぶすことはできる。上
から覆いかぶせれば、将来分離することもできるのでは。今は無理でも将来その価値を
知る者が手にする事ができるのであれば……。ヴァザーリは老婆の手を握った。
「ご婦人。私の魂は救われた!」

「祭司様、宮殿改築の工事に着手しようと思います。」
「そうか、それは何より。」
「つきましては作業に集中したいので私の手のもの以外の者には立ち入ってもらいたく
ないのです。その了解を得に来ました。」
「あい、わかった。その代わりに連絡は欠かさずするように。」

ヴァザーリは絵の作業に取り掛かった。まずあの絵の処理をしなければならなかった。
ある程度の空間を作り、その上から自身の絵を描いていくのだ。天才の絵はヴァザーリ
の作品の下で眠ることとなる。
「君たちはこの作業のことを他言してもらっては困る。それができないものは即刻立ち
去るように。これは私の魂の救済でもある。」
こうした作業の後、ヴァザーリの絵のきらめく旗のひと隅に一文が示される。

「探せば見出される」

こうして天才の絵はヴァザーリの下で眠り続けていたのであった。

「先生、この下にあの絵、アンギアーリの戦いがあるのですね。」
「絵の下にあるものを見れるようになった現代の科学の奇跡だよ。ヴァザーリはこれを
待っていたんだ。ずっと昔からね。」
「先生はずっと探し求めていらしたものですよね。」
「そう、この復活を待っていた。ノリ・メ・タンゲレ。触れることなく復活を目の当たり
に出来る日も近い。私はそう確信しているのだ。」