ディジーチェーン

 母の手の 櫛の丸みを 吾子の手に 髪梳くときの いとおしきかな

「お母さぁん、お母さん。あれ、何やってるの?また句作ってるー。」
「いいじゃない、私の趣味なんだから。」
「ババくさいからやめなよー、どうせなら体動かせばいいのに。」
「私はどうせ運動音痴ですよーだ、脳トレしてる方が若くなれるんだから。」
「そんなこと言って脳トレゲーム、もうやってないじゃない。」
「と、ときどきはやってるんだからね。ときどきは!」
そんなことを言いながら、母は隣の部屋に逃げてしまった。最近腹回りがすごいことに
なったと言ってるのに、あまり気にしていないみたい。少しは動けばいいのに。部屋を
のぞいて見ると箪笥から何か出しているようだった。
「あ、ゆう。ちょっとこっちへおいで。」
「なにそれ。」
「櫛よ、櫛。ほら、さらさらになるでしょう。はい、こう持ってすいすいと、そうそう。」
古ぼけた櫛だった。そういえば昔、これを使っていたような気もする。
「ゆうにこの櫛あげるわ。うちのお宝なんだから!大事にしなさいね。」
「えー、うちにお宝なんかあるわけないじゃない。ニセモノなんじゃないの?」
「何言ってんの、鑑定してもらったらすごいことになるわよ。一億はするわね。」
「一億って宝くじじゃないんだから。でも、もらっていいの?これ。」
「これね、お母さん、ゆうのおばあちゃんも使ってたのよ。」
おばあちゃんは私が小さい時に亡くなっている。かすかだが記憶に残っている。とても
優しくてお菓子とかもらったような。あ、櫛で頭を梳いてくれたような。もしかしたら
この櫛だったのかもしれない。
「おばあちゃんの思い出の櫛だったみたいよ。何度か話、聞いたことあるの。」
お母さんは懐かしげに櫛を見ていた。

「絹さん、これから御国のために戦いに赴くことになりました。」
「どうして……どうして。これだけお慕いしているのに。結婚の約束もしたのに。」
「私もできればあなたと離れたくはない。でも仕方の無いことなのです。」
寄り添いあう二人に残された時間はわずかであった。明日には出立しなければならない。
「かならず生きて、生きて帰ってきて下さい。」
「生きて戻れるかはわかりません。あなたは私が死んだものとして、あなたの幸せをつ
かんで下さい。」
「嫌です、かならず戻って下さい。……そうだ、これを。私と思って持って行って。」
それは櫛だった。普段から肌身離さず持っている大切な櫛。
「これは大切なものでしょう。受け取るわけには……」
手を取り、強引に櫛を握らせる。重なる手にそっと力を込める。
「私は大切な人に大切なものを託すのです。私はここであなたの無事を祈ります。」
「絹さん、私は幸せ者です。あなたの思いが私の力となるでしょう。私は死地であなた
の幸せを願いましょう。」

彼は出立した。戦況は日に日に悪化し、そして日本は敗れた。
「……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世の為に……」
続々と帰ってくる者達。しかし彼は帰って来なかった。

「ごめん下さい。」
「はい、あ……」
彼の母親だった。手には手紙と、そして渡したはずの櫛があった。
「絹さん、あなたに当てた手紙です。息子のことをほんとに思っててくれたみたいで。
ごめんね、ほんとにごめんね。ううう……」

手紙には戦地のこと、そして万が一の為にこの手紙と櫛を託したことが書かれていた。
「あなたはあなたの幸せをつかんで下さい。」
彼はそう言い残した。私の幸せ。それは彼と結ばれることだったのに。泣くことしかで
きなかった。そして泣き疲れると何かがからっぽになったような気がした。

「絹ちゃん、そんなに落ち込むんじゃないよ。人生色々あるんだ、ね?」
「おばさん……ごめんなさい心配かけて。」
「こんな時なんだけどさ、お見合いの話があるんだよ。お母さんの方にも許可は取って
あるし一度してみてくれないかね。」
母は店で働いており、私は疎開先のおばさんの家で厄介になってるのだった。
私の幸せ、それが彼の望み。彼は死に、そして私は生きている。彼の望み通りに私は幸
せにならなければ。
「わかったわ、おばさん。お見合いしてみる。」
「そう、良かったわぁ。ずっと塞ぎこんでるから心配したんだよ。」

縁側で手紙を広げる。彼の字が、彼の顔を思い出させる。しっかりと握ったあの手の感
触も。優しかった彼はもういない。櫛で髪を梳くと、風が通っていった。
「お母さん、やっぱり辛いよ……」
母から譲りうけたこの櫛を、母は昔手放してしまう所だったと聞いている。なんでと聞
いても答えてはくれなかった。私も子供ができたらこの櫛を渡すのかな。ふとそんなこ
とを思うのだった。

「では確かに。」
「はい、ありがとうございました……」
これだけの資金があればしばらくはなんとかなる。そう、これは必要な資金。私に大切
なのは、あのお店なのだから。地元の有力者から融資を受けるため私はあらゆる物を
売ることにした。最後まで手放したくなかった櫛も今、渡した。かなり昔に作られた
上質な櫛。母から女のたしなみとして常に持ってるよう言われたものだ。しかし今は
そんなことも言っていられる状況ではなかった。少しでも多くの資金がなければ店は
もたないのだ。

「これだけあれば……これで、これで良かったんだ……」

自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。私は店を守らなければならない。生まれた
ばかりの我が子の為にも。今この時を切り抜ければ、軌道に乗せることができる自信は
あった。私は女であるよりも母でなければ。生きるために。

「これでいい、これで良かったはずなのに……でも……」

「ふぅ。」
今日のお茶会も楽しかった。皆おしゃれのセンスも高くて。あの帽子は私も欲しいかも
知れない。ふと机の上を見ると見慣れぬ櫛が置いてあった。あぁ、今日買い取ったとか
言う櫛かも知れない。最近はこういう櫛は流行らないかもしれないけど、別に何個持
っていても困るもんでもないし。窓辺の椅子に腰掛けていると、玄関の方で何か言い
合っているのが見えた。女が何か食い下がっているようだけども。執事は玄関を閉めて
追い払ったようだ。だが、女はまだ玄関の前から動く様子はなかった。

「何かあったの?」
「はっ、それが。」
執事を呼び出し事情を聞く。どうやらあの女が櫛を返して欲しいときたらしい。わざ
わざこんな夜中に。窓から玄関を見るとまだその女は待っているようだった。
「一度成立した話ですし、そのような事を言われても困ると断ったのですが……」
「……」
あの女にとって、この櫛はそれほどに大切なものなんだろう。私にはわかるような
気がした。わかるからこそ、何かもやもやし、そしていらいらするのだった。
私にあってあの女に無いもの。あの女が捨てきれないもの。それは……
「返してきてあげて。」
「はっ?」
「返してあげなさい、いつまでもあそこにいられては迷惑でしょう。」
「わかりました。」
執事は櫛を取ると玄関の女に渡した。玄関の女は櫛を受け取ると大事そうに抱えた。
何度も何度もおじぎをして、そして立ち去った。
「櫛を返しておきました。代金はここに。」
「そんなお金どこかへ捨ててしまいなさい。」
執事が手に抱えていた札束を手で払い部屋を出る。なんだか自分が悪いことをしている
ような気がしてむしゃくしゃしてくる。せっかくいい気分で帰ってきたのに。
「なんで私がこんな気分にならなくちゃならないの。」
今日はもう飲み物を飲んで、すぐ寝ることにした。

明かりのない林道を歩いていく。さきほど返してもらった櫛は、今私の両手の中にある。
大事そうに抱え込み歩いていくと、薄暗い林道を照らす月が真上に輝いていた。林道
の切れ目にすっぽりと収まるような月が、ほのかに私を照らしていた。私は髪留めを
はずし、櫛を髪に当てる。
「ごめんね、ごめんね絹。私はどうしても女を捨てられなかった……」
生活するためにもお金は必要だった。我が子を育てるためにもお金は必要だった。
それでもこの櫛は、この櫛だけは売ることが出来なかった。これを売ったら、私の全て
を売るような気がしたのだ。馬鹿なことをしたのかもしれない。

「ね、綺麗でしょう。」

振りほどいた髪に櫛を入れる。黒髪に落ちる月の光がさらさらと流れていった。

戸を開けると涼しい風が入ってくる。今日は良い月が出ているようだ。
「櫛越しに見る月は絶景かな絶景かな。……はぁ。」
「どうしたんです、若旦那。ため息なんかついちゃって。」
「あぁ、そりゃため息も出ちまいますよ。はぁ、なんでなんだろうねぇ。」
「おぉい、若旦那のためにいつもの用意しとくれ。」
「悪いね親父さん。いやね、惚れた女に贈る櫛を用意してたんですがね……」
「その様子だと振られましたか。」
「うーんまぁそうだね。わたしゃ女というものがわからなくなってしまったよ。あれ
ほど好きあっていたと思ったのに、家の都合の見合いで結婚決めたからもう会えない
って。はぁ、この櫛渡して夫婦になる約束をする予定だったのになぁ。」
「まぁ若旦那。惚れた腫れたにゃ色々あると言うじゃないですか。さぁまずは一杯。」
「お、悪いね。ふぅ、でもね、わたしゃ本気でしたよ。遊びなんかじゃ決してなかった。
この櫛だって京からのくだりものと同じくらい……いやそれ以上の物だし。」
「ほぅ、と言うと?」
「こちらに来ていた京の職人さんにわざわざ頼んで作ってもらったものなんだよ。」
「へぇ!そいつは値が張ったでしょうねぇ。」
「値段の問題じゃねぇ!これはわたしの心意気なんだよ。それだけの思いがあったてぇ
のに。なんでかねぇ。はぁ。」
櫛を取り出し窓の外へ放り出そうと構えたが、途中で止めた。
「贈る女がいなけりゃ意味のない品かもしれないが……」
「もったいないですよ、若旦那。そんな上等なものを捨てるだなんて。」
親父が手を叩いて店の者を呼ぶ。
「酒にあう肴を用意しとくれ。若旦那、まだまだ良い人は現れますよ。今日の所は
私が持ちますから。ささ、飲み食いして気分を変えましょう。」
「すまないね親父さん、気を使わせちゃって。あぁ良い月、良い酒だ。」

ほろ酔い気分で肴をつついていると、袂からまた櫛を出し眺めた。ぼんやりと眺めて
いたが、やがて相好を崩し始めた。
「どうしたんです、若旦那。にやにやしちゃって。」
「いやなに、この櫛でさ。将来可愛い娘ができたらそいつの髪を梳いてやるのもいい
かなぁなんて思ったからさ。」
「あぁ、なぁる。それは確かに結構ですなぁ。」
まるでその娘がいるかのように、髪を梳く真似をする。自然と心に暖かいものがあふ
れてくるような気がした。
「櫛を作ったのも悪くはなかったのかもしれないねぇ。こんな気持ちを持つことも
なかったかも知れないし。……まぁ、まずは相手がいなくちゃ話にゃならんけどね。」
「若旦那にその気がなかったとしても、周りが放っておきませんよ。もし私に娘がいた
らすぐにでも嫁がせたいくらいですよ。なぁに心配はいりません、大丈夫。」
「うそだとしても嬉しいですよ。うそでも本当でも親父さんは商売上手と言うわけだ。
私は常連客にならざるを得ない。あは、ははは。」
「恐れ入ります、ふふふふ。」
談笑する二人に、店のものが外からの誰かの使いが来たとかで呼び出しに来た。
「若旦那、ちょっと失礼しますよ。」
どうやら若旦那の店からの使いらしく、急いで帰って来いとのことだった。
「若旦那、お店の方からですぐに戻られるようにとのことですよ。」
「えっ、なんだい。もう少しゆっくりして行きたかったのになぁ。わかった、すぐ
戻ろう。また今度改めて来るよ。」
「お気をつけて。ほらっ、若旦那のお帰りだよ!」
店のものたちも集まって見送る。
「ありがとうございましたー。あ、丁稚さん。そうきみきみ。わざわざお使いご苦労
さん。これちょっとつまんでいきなさいよ。」
親父は使いに来てた丁稚を捕まえて根掘り葉掘り聞き出していた。
「えっ、じゃ何かい。若旦那の見合いの話がきてるのかい。いい所のお嬢さんと。
へぇ、そいつは。あぁ気をつけて帰るんだよ。……こいつは近いうちに祝いとなるかも
知れないねぇ。」

ほろ酔い気分の若旦那は涼しい風を受けながら帰り道を歩く。月を櫛で梳かしながら。
「名月や まだ見ぬ吾子の 髪を梳く。なんてな。」

「腹の皮 積み重ねれば 春日山。なんちゃってー。」
見事なまでの三段腹を揺らしながら、洗濯物を干している。お母さんの腹は山じゃ済ま
ないような気もする。
「もうお母さん、早くしてよー。」
「はいはい、すぐ行きますよ。」
櫛をもらってからも、お母さんに髪を梳いてもらうようにしていた。なんとなく、心地
よい感じで落ち着くのだった。
「ねぇ、この櫛ってどれくらい古いものなの?」
「さぁ、でも随分古いものだってのは聞いたよ。何回か修理したとか。」
「ふぅーん。」
「この櫛はお母さんも、ゆうと同じくらいの時にもらったんだよ。」
「じゃぁ私も結婚して子供できたらあげようかなぁ。ずっと先かも知れないけど。」
「こうやってるとおばあちゃん思い出すんだよ。おばあちゃんもこんな風な気持ちで
やってたのかなぁって。」
「なんだかずっと昔からそんな風に使われてたっていうのは不思議だね。」
「そうそう、昔から大切に使われてきたものには色々歴史もあるんだよ。」

髪を梳き終わると確かにさらさらになって具合がいいような気がした。何よりもこの
梳いてもらっている時間が心地よかった。お母さんも、おばあちゃんも、おばあちゃん
のおばあちゃんも皆こんな気持ちになってたのかな、ふとそんなことを思った。
手渡された櫛をまじまじと見る。古ぼけた櫛かもしれないけどなんだかかっこよく
見えた。私もいつかこんな風にしてもらったことを思い出すのだろうか。

「私、この櫛大事にするね。」
するとお母さんはすぐにしたり顔で自信満々に言うのだった。
「大切にしなさいよー、なんてったって一億円なんですからね!」
私の時は3億円にしようかな、宝くじのような気前のいい数字を思うのだった。