水売りガイマとその息子ナダの物語

 夜の帳が降りる頃、空は赤と紺が混じり合い、星が瞬き始める。周りは静かな田園が広がり、さらに奥には川が流れる。その静かな田園地帯にポツリポツリと建つ建物たち。ひとつは小屋というには大きく、家というにも大きい。立派な建物からはランプの明かりが漏れ入り口には門番が立っていた。  もうひとつ離れた建物もあり入り口にはやはり門番が立っている。脇には色々な物を詰め込んだ瓶をぶら下げた馬たちがひしめきあっている。中からは人々の談笑する声が風に乗って聞こえてくる。  入り口から中へ入ると細い通路。脇には調理できるスペースがあり、男たちが馬からおろした瓶を運び入れている。釜や炉に火が入り、パンや料理が次々と出来上がっていく。 給士の女たちが出来た料理から運んでいく。  運んでいく先は建物奥の大広間でそこには数十人が豪華な絨毯の上に座り、おのおのが今日の時間を楽しんでいるようだった。男、女、屈強なもの、学者風の物、若者、年寄り。実に様々な者達が料理を囲んで座っている。  大皿に盛られたホレッシュが持ち込まれるとひときわ大きい歓声が上がった。鳥、たまねぎ、トマトやターメリック、ナツメグなどを入れて煮込んだ料理で鮮やかな色と豊かな香気が部屋に満ちる。おのおのがパンを手にとりまだまだ運び込まれる料理に舌鼓を打つのであった。  それらもやがて落ち着き、冷たいシャルバットを頬張り口の中をバラの香りで満たしていると、誰からともなく音楽とこの素敵な夜を彩る話を聞きたいとなった。その言葉に一人の男が立つ。「では私の話をしましょう。この黄金の時間を与えてくれた、偉大なる王と私の出会いを。湧き出る慈愛で救われた哀れな私達の話を」  その言葉に呼応するように、窓辺に座った男が抱えていたシタールを弾き始める。その音は闇に溶け込み、場にいる者たちに甘く切なく震わすのであった。その男が語りだそうとした時、立った男はその言葉を手で制した。

 水瓶に水を入れた時
 私はそれしか与えられぬ
 だが彼の王は
 水瓶以上の慈愛を与える
 その慧眼は
 ただの水瓶を泉に変える
 泉に沈む輝く真珠も
 王の前では暗く沈み霞む

 称えよ王を
 獅子王アサドを
 我らすべてに救いあれ

 シタールを弾く男が感嘆の声をあげる。「これは私の商売敵の登場かな」「素晴らしい、詩人顔負けだな」「これはどちらに語ってもらうべきかな」  立った男は浪々と語りを終えると慎ましくその場に座る。「私が名高い詩人メンカールに変わるわけもありません。詩は詩人に、王は玉座に。水は水瓶にです」  メンカールと呼ばれた男はシタールを弾き続けその言葉を受けて語り出す。「今宵語るは獅子王アサドの栄光の証。金の文字をもって記されるべき出来事。水売りガイマとその息子ナダの物語。私のくちばしが甘い間はその言葉を以て魅了しましょう。称えよ王を、獅子王アサドを、我らすべてに救いあれ」

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 獅子王アサドが治める街のひとつ。近隣にはバザールが開かれ活発に商取引がされている。人の通りが多ければそれだけ様々な商売人たちがあふれだす。ガイマはそこで水売りをしていた。近くの泉から水を汲み上げそれを、乾きにあえぐ人たちに売って回るのである。この水売りの水はさわやかで、かすかにバラの匂いがした。 「さぁさぁ喉の乾いた人はいないかね。冷たくかぐわしい水があなたの大地を潤すでしょう。一杯銅貨一枚、1ファルスだよ」  この慎ましやかな商売人は安く、冷たい水を売ることで評判となっていた。そしてその息子のナダは父親の手伝いをし、交代で水を汲み売っていた。「父さん、交代だ代わるよ」「おう、頼むよ。今日は後一回往復したら終わるとしよう」  この親子のもうけは微々たるものだったが、その微々たるもうけをさらに減らして水の香り付けに使うバラのエッセンスを買っていた。飲む者に潤いと癒しを。たとえ食事が貧しいものとなったとしてもより良いものを提供したい、そういう考えの持ち主であった。  パンを二人で分け合い、いつもの通り交代で水を売る日々。「のどの渇いた人はいないかね。冷たくかぐわしい水はあなたの足を元気づけるでしょう。一杯銅貨一枚、1ファルスだよ」  この親子はバザール脇の広場で水を売っている。忙しい時間も過ぎ、何気なく辺りを見回すと、何か苦しげな様子の老人が壁にもたれかかり、座り込んでいた。「どうしました、ご老人。」「あぁ、うん。なんでもない。放っておけば治まるから。」  見れば苦しげな老人はろくに食べ物も食べてないのか、弱り切っているようだった。水売りガイマは見かねて水を一杯差し出すのであった。「おお、若いの。その水はありがたいが私は1ファルスも払えぬのだ」「この水は売り物ではありません、慈悲のための水は万人にそそがれるものでしょう。ささ、どうぞお飲み下さい」  老人は目に熱いものを浮かべ、感謝の面もちで両手でそれを受け取ると少しずつ味わいながら飲み干すのであった。乾いた大地に水が行き渡るように、老人はその体に活力を取り戻したようだった。「ちょっと待ってて下さい」  水売りは近くのバザールでパンを購入し、それを老人に手渡す。「なんという寛大な人よ。あなたは近くその慈悲への報償を受け取ることになるでしょう。この水とパンで得たもので、私は生きる術を探しに行きます」「あなたの道が栄光に彩られますように!」  老人と水売りは互いに励ましあい別れた。

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 街から少し離れた場所に泉がある。そこよりも近くに水場があるのだが、こちらの水は冷えて清涼でおいしい。水売りガイマはそう思いここの水を汲むようにしていた。息子のナダと交代で水を汲み、常においしい水を提供していたのだった。ナダは最初はわざわざ遠くの水場まで行かないでも十分ではないかと思ったが、やがて飲む人の顔を見ていると、父の言っている事が正しいと思えるようになっていた。  交代で水を汲むのは常に新鮮な水を提供するためである。わざわざ重い水を運び得られる対価はわずかだが、ガイマもナダも文句はなかった。「さぁ、父さんが待っている。早いところ水を汲んで戻ろう」  しかしこの時ふらふらと木陰から現れた3人組の男がナダの前をふさいだ。みすぼらしい風体の男たちが上擦った声で言う。「あ、有り金を出せ!抵抗するとひどいぞ!」「うわぁ!」「そ、そうだ。こっちはもう何も怖くないんんだ。いいからよこせ!」 「後生ですお許し下さい。この種金が無ければパンも水を売るためのオイルも買うことができません。」「うるさい!こちとらもパンを買う金も無くてどうしようもないのだ。ならば奪える者から取るしかないだろうが!」「ひぃぃ」

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 あわやその青年が殴られようとした時、男と青年の間に何かが突き刺さる。それは銀製の見事な作りの短剣であった。「待て、つまらぬ争いなどするな」「な、なんだてめぇ」 「う、やばいよ兄者」  その短剣を投げたあるじは、背が高く精悍な顔立ち。見事な髭に投げた短剣を思わせる涼やかな目元からは意志の強靱さを物語る。「おまえ達がどうしようもないことはわかった。ならばもし私が何も持ってないのならばおまえ達を襲っても良いことになるな?」 「うぅ、くそ」「大丈夫か」  襲ってきた男達を無視して青年を立たせる。「理由が問題ではない。行動したからにはそなた達はその責を負う。」「兄者、逃げよう」「くそ、俺らは何もできねぇのか」 「待て!」  鋭く呼び止められ、思わず足を止める3人組の男達。青年はこのあわれな男達が報復を受けるのかと思ったがそうではなかった。「その短剣を持って行け」  男の以外な答えに3人は顔を見合わせる。「その短剣を売ればパンを買う金にはなろう。与えられた機会を逃さずつかみ取れ。その機会は万人に与えらる報償である」  まごついていた男達だったが、そのうちの一人がすばやく短剣をつかみ取るとあわてて逃げ出すのであった。「助かりました、せめてお名前を」「なに、それよりも父上が待っているのではないかね。早く行ってあげることだ」「あっ」まさしくあっという間にその場から立ち去っていた。その紳士が立ち去ったあと、確かにバラの香りが漂っているのであった。

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 一日の仕事を終え、その日の糧を食べていると、ナダはこの日起こった出来事を父に話すのだった。「なんと寛大な御仁なのか、さぞや高貴な方に違いない」「お礼を言う間もなく立ち去られていたのです」「そうか今度会った時はその手を押し包み感謝せねばならんな」  父もまた、バザール脇にいた老人の話をする。「ご無事であればいいのだが」「父上の行いにそのご老人も好機を得ているでしょう」「そう願う他ないな」

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 今日もバザールからの喧噪が澄んだ空に響きわたる。その心地よい騒音に水売りガイマは声を通す。「えー冷えた水は如何ですか。香りよい甘露の水です。一杯銅貨一枚1ファルスだよ」  その喧噪を縫って一人の男が近づいてきた。「水を一杯もらえないか」「はい、毎度どうも。あっ、もう少しお待ち頂けますか。そろそろ新しい水が届く頃だと思うので」「わかった」  その男はどこか高貴な出の人なのか身なりも立派で体躯たくましく、お供に太刀持ちを従えている。その目は夜に吹く風のように涼やかだが、どこか子供のような悪戯っぽい光を湛えているのであった。「おおい、ナダ。ここだ、お客さんが一人お待ちなのだ。すぐにお渡ししてくれ」「わかりました」  そこへ戻ってきたナダはすぐに水を汲み、客人に慎み深く差し出す。そして顔を見上げたナダは驚きの声をあげる。「あなたはもしやいつぞやの」「うむ、そんなこともあったかな」「父上、この方こそ先日話したお方です」「なんと」「ふむ、おまえの所の水はいつ飲んでもうまいな」  驚く親子にその男は手を上げてお供のものから皮袋を受け取る。「世話になったな、これが代金だ」「えっ、しかし」「しっかり受け取れ」  男が渡した袋はずしりと重く、ガイマは中を確かめてみる。「うひゃー」そこには自分が見たこともないほどにディナール金貨があふれていた。十や二十ではない。五十、いや百ディナールはありそうであった。  後ろからのぞいていたナダも腰を抜かす。「ち、父上」「さ、さすがにこれほどの代金を受け取るわけには参りませぬ」「何を言う、それはおまえの正当な報償だ」「しかし」 「砂漠で水を求めるものはその一杯に金の価値を付ける。必要とするものにはそれだけの価値があるのだ、あの老人のように」「え、知っているのですか」「そうだ、これはおまえへの慈悲の報償である。その種金を使いより多くの者に潤いを与えるがいい」「……」  男はそれだけ言うと、あっと言う間にその場から立ち去っていった。残されたガイマとナダはしばし呆然とする。周りはいつも通りの喧噪でバザールからは物売りの声が響いている。「ナダ、これからは忙しくなるぞ」「はい、父上」

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「これが一滴の水で泉を作った男の話。その名は獅子王アサド。彼の王の恵みは深く我々をあまねく満たす。称えよ王を 獅子王アサドを 我らすべてに救いあれ」  メンカールはシタールを弾き終わる。聞き終えた観衆からは拍手喝采が起こった。そしてそれが治まるのを待って言葉を続けるのであった。「その後の顛末は物語の当人から聞くのがよろしいでしょう」「おお、そうだ是非聞かせてくれ」  最初に朗々と詩を唱えた水売りのガイマは謙虚にその言葉をつなぐ。「事の次第はこうです。私は王より頂いたもので、まず拠点となる物件と水瓶を買うことにしました。水売りの組合を作ることにしたのです。そして息子ナダには先日襲ってきた男達を連れてくるようにいいました。」  傍らに控えていたナダがその後を続ける。「父に言われた私はその男達を父の元へ連れてきました。彼らに水売りの仕事をさせることにしたのです。王の計らいの顛末を聞いた男達は涙を流して感謝していました。銀の短剣は売ろうと一度は思ったそうですが、王の計らいが心に響いたのか手を着けず、臨時の手伝いなどをしてひとつのパンをわけあって堪え忍んでいたそうです。」  ガイマが言う。「今では水売り組合を仕切る管理者となっています。これらの恵みは王の計らいがあってのこそ。まことにその慧眼は鋭く深く、我々には想像も出来ぬほど」  詩人メンカールが立って杯を掲げる。「さぁ今宵の喉の乾きをガイマの水で潤しましょう。ガイマと王に感謝して」

 陽気な喧噪が風に乗って獅子王アサドの別邸へと流れてくる。「楽しくやっているようだな」「ええ」「おまえもあの輪に加わっても良いのだぞ」「まぁいじわるな人。あなたと二人きりでいられる時間は貴重だと言うのに」「そうだな、気を使ってくれた者達にも悪いか」「わかってて言ったのね、ひどい人」「ははは……」  ここは獅子王アサドの別荘。街のはずれに位置するここで日頃の慰労するため多くの者を連れてやってきた。宴もたけなわですが長々と語るのも無粋というもの。口元甘くよくさえずるクチバシもここで一旦閉じることとしましょう。