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RPGの歴史とポヤの試み

RPGの歴史・序章
まず、RPGとは?Role Playing Gameの頭文字を取ったものである。
RolePlayつまり役割を演じるゲームということである。ここで言うRPGとは、
TVゲームでのRPGであり、T・RPGつまりテーブルトークRPG、ゲームマスター
がゲームの進行を管理し、基本的にゲームマスターと数人のプレイヤーとの話し合いで、
ゲームを進行するものとは別のものである。
しかしRPGの元となったのはT・RPGであり、T・RPGでの煩雑なルールの処理、
また人数が集まらなければ楽しめないという問題をコンピュータで処理をするという事に
より解決、誕生したのがRPGである。
RPGの歴史・初期
RPG初期の頃は、まだ家庭用ゲーム機などはなく高価なコンピュータを買わなければな
らなかった。ひとつのゲームを遊ぶ為に、数十万〜数百万なければ遊べぬシロモノであり
この時にはまだ一部の人だけが楽しめるゲームであった。
RPGの歴史・中期
RPG中期になると、高価なコンピュータを買わなければできないRPGだったが、家庭
用ゲーム機の出現により、安価で親しみやすいソフトが登場する。それがドラゴンクエス
トである。ドラゴンクエストのヒットによりゲーム業界はRPGが氾濫した。またアクシ
ョンゲームやシミュレーションゲームに経験値などの成長要素を入れてRPG的な楽しみ
をプラスしたものも作られていく。大作、佳作、秀作、駄作、謎作などいろいろと作られ
まさしく玉石混交の時代であった。
RPGの歴史・後期〜現在
そしてRPG後期となると、種々雑多なソフト達も淘汰され、売れないソフトは自然と消
滅していくこととなる。またユーザーの目が肥え、なにかしらのセールスポイントがなけ
れば売れなくなってきている。RPGはその制作において非常にリスキーなもので、戦闘
・成長のバランス、プレイ時間の長さ等から多大な時間をかけなければ作れないものとな
っている。そのため現在ではあまり多くのRPGが作られてはおらず、大作と呼ばれるも
のがほとんどとなっている。
スクウェア批判に関する考察
スクウェアは大作RPGファイナルファンタジーシリーズを作り続けており、その度にな
にかしらの新しい試みをしている。そのため作品ごとに、システム、ストーリー、グラフ
ィック等つねに変化させている。ファイナルファンタジーZの時は、マップが見にくくど
こへ行けば良いかわからない、という批判があちこちから聞こえた。またその他にも戦闘
システムがわかりにくい等、色々な批判が言われている。しかしスクウェアという会社は
資金・人材・ノウハウ等が豊富にあり、それら豊富にある資源を利用して様々な試みを試
していたりでゲーム業界のまさしく先頭を走る会社であり、批判が起こるのは当然の事で
ある。常に意味のある批判をユーザーがすることによりスクウェアという会社が成長し、
ひいてはゲーム業界全体が活性化する。意味ある批判は必要であると思われる。
もっとも有効な批判はソフトに付いてくるアンケート葉書に不満・批判点を書き送る事で
ある。ソフトも買わず、プレイもしていないのに批判するのは無意味である。
RPGの歴史・その面白さとは?
RPGとは本来「役割を演じる」ゲームという事だが、実際の面白さの要因は、成長の楽
しみであると言える。RPGには大抵の場合、経験値(EXperiencePoint
、EXPと言う場合もある)によるプレイヤーの成長、また武具やアイテム取得によるプ
レイヤーの強さの成長がある。またこの他にもストーリーやリドル等の楽しみがあるが、
今RPGと呼ばれているものの大半は上記2つの成長の楽しみがある。
なぜ大抵のRPGには成長の楽しみがあるのか?それは、RPGの初期の頃から現在に至
るまでRPGのほとんどは怪物(モンスター)やなんらかの敵との戦闘を中心としたもの
が多かったからである。
RPGの歴史・ぽやの試み
RPGとは戦闘があるものである、そんな風潮の中「どきどきポヤッチオ」(以下ポヤ)
が発売された。アクティブコミュニケーションと名付けたリアルタイムRPGを謳い文句
にしている通り、従来の戦闘重視のRPGではなく、コミュニケーションを重視したゲーム
となっている。ゲーム的には主人公が従姉妹のパン屋を夏の間手伝い、その間に起こる
色々なイベント(事件や恋愛)を楽しむというものである。RPGはこういうものだと右
へならえの中、ポヤはコミュニケーションというRPGの新たな側面を提示したのである。
このことについてポヤの制作者近藤敏信氏が興味深い話をしている(参考文献・どきどき
ポヤッチオわくわく生活ファイル)「昔RPGが面白くて、一晩中遊んでいたんですけど
あるときを境にあまり遊ばなくなってきて。絵は奇麗になってるし、音楽も良くなってき
ている、けど本質的な部分であまり変わってないからどうしても飽きてくるってコトと、
何よりいままで目をつぶっていた部分が気になってきちゃいまして」(P108より)
本質的な部分、つまり戦闘をして経験をつみ敵を倒していくという柱があり、それを外す
、あるいは比重を少なくするというRPGが少ないということである。人間同じ事ばかり
していればいずれ飽きてくる。たとえ言葉で「これは従来のものと違います!」と言って
も中身を少しやれば「あぁ、これは」とプレイヤーに見透かされてしまうだろう。プレイ
ヤーがやる前から中身がわかってしまっていては面白さは半減である。そんな従来のRP
Gのアンチテーゼがポヤである。
目をつぶっていた部分とはつまりRPGなどで村人などが同じ事しか言えないというもの
である。コミュニケーションを題材としたポヤには避けては通れないものである。そこで
感情等によってセリフを変化させるなどの工夫をはかっている。また目をつぶっていた部
分として、挨拶によるコミュニケーション「オイッス」がある。
オイッス革命
このコミュニケーションゲームの中での最大の革命は「オイッス」という挨拶である。
従来のRPG、ポヤにもイベントによって起こる強いコミュニケーション(何かしらの事
件等)がある。しかし、人と人(またはそれ以外でも)の一番最初のコミュニケーション
とは挨拶である。それは日常に起こる弱いコミュニケーションであり、この日常のコミュ
ニケーションを見事に表現したのが「オイッス」である。我々の生活の中でも、挨拶によ
るコミュニケーションは日常的に使われている。例えば、廊下を先生とすれ違う時に、軽
く会釈をする、または声に出してなど、それは一瞬の間だけのコミュニケーションだが、
確実に両者を意識させ、その場で生活するものとしての意識の共有をはかることになるの
である。またこの「オイッス」はボタンひとつでいつでもどこでも発動することができる
が、人がいなければ反応は帰ってこない。つまりこれは挨拶、ひいてはコミュニケーショ
ンというものは、なんらかの人、あるいは対象がいて初めて成立するものと言う事をまさ
に証明しているのである。
RPGの歴史・どきポヤの試み総括
始めのころのコンピュータではできない事でも、最近では色々と出来るようになり可能性
の幅が広がりつつある。そんな中でもRPGというものの本質的部分は近藤敏信氏のおっ
しゃられる通り、あまり変化がない。ゲームは面白く楽しいものをプレイヤーは求めるで
あろう。言うなればゲームとはお祭りのようなものであると思う。つまりなんらかの目玉
や仕掛けをプレイヤーは求めているのである。同じ屋台骨だけで何回もお祭りを開かれて
も飽きがくるであろう。ましてやまわりが皆同じようなものならばひとつ見て終わりが通
常のプレイヤーであると思う。ポヤが指し示したのは「コミュニケーション」という新た
な分野である。RPGの行く末は祭りを楽しませてくれる開催者の想像力と遊び心である
と私は思う。